「双水執流の成立と二神半之助について」


臼木良彦宗隆


 双水執流を考える上で大事な事が二つある。一つは組討と腰之廻の正確な定義であり、もう一つは双水執流の正確な成立時期とその時代背景で、その事を具体的に述べるならば流祖二神半之助が何時生まれ、どのように生きて来たかが重要なポイントになる。特に腰之廻については、源流と言うべき竹内流を参考に考察すべきはずだが、残念ながら過去に今までこの比較研究を行った者がいない。だから長い間に変化し、腰之廻を居合術とか甲冑居合などと表現してしまっている事があるが、これらはきちんと歴史検証をすれば、すべて誤りである事に気が付くはずである。

 竹内流が定めた腰之廻とは、要約して述べれば回転や跳躍と言った独特の動きのあるもので、また小太刀等を持って行う組討の事を言う。つまり剣術や居合などではなく、あくまで組討の一つにすぎないのである。だから竹内流では、居合は別に存在している。

 二神半之助が生きていた江戸時代は、甲冑とは基本的に無縁の時代でこの事を正確に把握しなければいけない。我が国の甲冑戦争がピークに達したのが室町末期の戦国時代で、それ以後慶長五年の「関ヶ原の戦い」、慶長十九年の「大坂の役」、そして寛永十四年の「島原の乱」をもって終わった。それ以後徳川幕府は全国を統一、慶應三年の大政奉還までの約260年に及ぶ年月で幕末の内乱を除けば、ほとんどが平和国家として存続していたのである。

 当流に限らず武術は少しでも古い方が優れているかの様な思いが少なからずあり、いつの間にか悪意は無いにせよ事実を変えて伝わってしまう事が多くある。また、多く述べられる事の一つに武勇伝的な話があり、これも事実に尾ひれが付いたり、あるいはまったくの創作だったりと様々で、これもその流儀の箔付けの一つになっている。

 たとえば天理大学の論文「双水執流組討腰之廻について」の中で、第八代舌間宗益(これには天文四年になっているが元文四年が正しい)の例をあげれば、「宝暦の頃、直方領主伊勢守長清公のお供をして、東海道金谷の川人夫が無礼な振る舞いをしたので、川人夫数十人を川に投げ込み長清公よりお誉めに預かり、後加増される」とあるが、年代的な事を調べてみれば間違いである事に気が付くはずである。

 まず伊勢守長清についてみると、寛文七年生まれで享保五年死去。つまり宝暦とは長清が死んでから三十年後の事になる訳だから、この時点であり得ない話で、(享保1716-1736年、宝暦1751-1764年)またさらに言えば、宗益が生まれたのが長清の死んだ年享保五年なので、長清とも重ならない。ちょっと調べれば簡単に解る事だが、何時の時代か何かの事例があってそれがいつの間にか宗益の武勇伝に入れ替わってしまったいい例である。


 これらの事について、舌間宗章著「双水執流組討腰之廻口伝書」(天保四年)をはじめ多くの伝書を約十年の歳月をかけて研究した結果、少なくとも宗章の時代までは腰之廻は組討として伝わっていた事が良く解る。これによれば腰之廻の中段は、元々は小太刀を使用した組討だと言う事が理解出来るし、また技の多くに竹内流に類似するものもあり大変興味深い。要するに当流においては、素手で行うものが組討で小太刀等武器を使って行う組討を腰之廻と定義付けていた。


双水執流の成立時期

 二神家系図によると、半之助は寛永十四年に起きた島原の乱に父二神時成といっしょに福岡藩士として参戦し時成は戦死(寛永十五年一月、七十才)し半之助自身も負傷したと言う。その後、福岡に時成を奉った寺があると言う。

 また半之助の没年は、元禄六年正月五日でこれを逆算してみると、江戸時代の始めの慶長から九十七年目と言う事になる。どう見てもそれより前の室町時代生れになると言うのは基本的には無理があるし、十歩譲ったとしても竹内流の流祖竹内久盛の門人と言うのはありえない話である。

 面白い事に竹内流の系図には、竹内久盛の弟子に二神某(竹内流、二神流)がいてその弟子に二神半之助(双水執流)となっている。まさにその二神某こそが半之助の父時成なのであった。

 半之助は、島原の乱以後一旦は福岡に戻ったようだが、その後の消息は分かってはいない。ただ双水執流略史には「承応の頃、舌間又七の斡旋により直方

に永らく滞在せり」とあるように承応前後には当時の東蓮寺藩(福岡藩の支藩、後に直方藩に改名)近辺にいたのは事実だろう。そしてそこでその自分が学んだ竹内流と二神流を、自分なりに工夫改良した技として誕生したのが双水執流である。


 ところで二神半之助は、では誰の警護を主にしていたのか。これを調べていたらと面白い事が解ってきた。

 半之助の門人帳には伊丹九郎左衛門と言う人物が記載されているが、実はこの伊丹は福岡藩の家老で寛永八年にはすでに千石以上士付となっており福岡藩内でもかなりの上級の大家老と言う事になる。そして元和九年に東蓮寺藩が出来ると東蓮寺藩の家老に就任している。そう言う中で承応前後に半之助と知り合い、半之助はその伊丹の護衛官として働いていたと考えられ、また伊丹自身も心身鍛錬の目的で半之助から双水執流を習っていたのではなかと推測出来る。

 ところが伊丹は、寛文二年に東蓮寺藩から一時福岡藩に戻っている。その理由は「小身の主を嫌い」とあるが、その真偽はともかく福岡藩で黒田光之の正室付けになっている。この時半之助も伊丹の護衛官としていっしょに福岡へ移り住んだと考えられ、福岡藩に移動した半之助は伊丹の推挙で馬廻に抜擢されたのだろう。馬廻とは今で言うと要人の警護にあたる警護官の事で、この事は福岡藩寛文官録に二神半之助(九大夫)は小林四郎左衛門組の馬廻で二百石の高級武士として記録されている。

 しかし、翌年の寛文三年に二代目東蓮寺藩主黒田之勝が三十才の若さで急死してしまう。急遽三代目東蓮寺藩主は本藩黒田光之の四男長寛が継ぐ事になるのだが、それにともない光之正室付けの伊丹もまた東蓮寺に出向、やはり半之助も一緒に移動したのではと私は考えている。だからそれ以後は基本的には東蓮寺藩で半之助は暮らしていたと思うし、寛文六年に二代目の田代清次郎が継承してから以後舌間宗益までがすべて東蓮寺藩(直方藩)で伝承されてきたのは極めて自然で納得が出来る。

 その後半之助は延宝の終わりから天和二年頃、久留島氏の誘いで今度は豊後森藩に入るが、その後元禄二年に森藩から召し放れとなり豊後竹田に移りそこで終焉を迎えたのである。

二神半之助正聴

元禄六年癸酉正月五日没


平成十九年九月十五日記之

平成二十一年十一月一日改訂


参考資料

黒田三藩分限帳(福岡地方史談話会)

福岡県地域史研究第十二号(福岡県地域史研究所)

双水執流略史(隻流館)