舌間宗益考

舌間宗益と双水執流について

                           臼木良彦宗隆

福岡藩に双水執流が伝わる事になったきっかけとして、舌間宗益の存在が関わっている。それは、本来双水執流は直方藩で伝承されるべき武道であったが、惜しくも第四代直方藩主黒田長清が享保五年に死去、跡取りがいないため本藩である福岡藩に合併されてしまい、そのため直方藩のすべての家臣団は福岡藩に移動を余儀なくされ、それにともなって宗益も福岡に移動したのでたのである。ただし移動とは言っても享保五年以降全ての家臣団が同時に移動をしたわけではなく、断続的に順次行われていてほとんどの家臣団の移動が終わったのが享保十四年で、宗益は在職していた代官所はその後も存続していて、ようやく廃止されたのが寛延三年九月のこと、長清死去後三十年以上たった翌年の寛延四年一月に宗益は福岡に移動した。

 福岡藩では宗益は浮組に編成され、中洲春吉町当時の地図で足軽屋敷と記載されているそこに移住した。現在の国体道路春吉橋西から西中洲一帯のところである。

 舌間宗益は、享保五年直方山部村の尾仲家に生まれた。尾仲氏はもともと世良田氏で中国地方の大内氏が遠く北部九州一帯まで勢力を伸ばしていた頃、その幕下の杉連並に重用され、粕屋郡尾仲村に住んでいた事から尾仲姓を名乗るようになった。

 宗益は幼名を三四郎と言い、後に新七と改め、元文五年十二月二十八日宗益二十才の時に舌間宗督の養子になり七郎宗益と改めた。舌間家は、舌間宗能(舌間又七の弟、享保元年十月四日没 戒名舌性院愛誉宗能禅定門)とその子宗督、そして宗益三代に渡って代官所附の仕事をしていたが、宗益の俸禄は六石二人扶持の微禄のため生活は決して楽ではなかったはずである。

 ところで、隻流館略史によると宗益が第八代を継承したのが元文四年九月十五日となっているが、この年代ではまだ尾仲姓で舌間ではない。これについて私の考えでは、元文四年は代の継承年月日ではなく入門年月日ではないかと考えている。これは他の継承者についても同じで、基本的に入門年月日の可能性が極めて高い。これらの事は、江戸時代に書かれている双水執流の伝書等でも入門日以外はすべて◯◯年仲夏などと言う表記が基本で月日は書かない。また私共の東京に双水執流を伝えた松井宗忠も全く同じ書き方をしている。

 さて流祖二神半之助だが、福岡藩から直方に移動したのはいつかと言う問題がある。寛文官録には二神を九太夫として記載されていることや、また略史には二代目として田代清次郎が寛文六年十一月十四日となっている事からみて、当然この寛文年間においては福岡藩にいた事は事実だろう。ただしここで言っている田代の寛文六年はやはり入門年月日の方が正しいだろう。またちなみに、太夫とは家老についていた武士の称号で、二神は九郎右衛門とも名乗っていたことからその九をとって九太夫としたと考えられる。

 ではどの家老かと言えば、それは二神半之助の門人帳に記されている伊丹九郎左衛門が一番近い人物で、もしかしたら伊丹が九郎左衛門であることから二 神九郎右衛門の名は伊丹から貰ったかもしれない。左と右の違いはあるがむしろ左右一体的でその近さを感じさせられる。そしてこの伊丹九郎左衛門が延宝三年に東蓮寺藩が直方藩に改名されると同時に伊丹は直方藩に移り住んだのだが、この時二神や田代も移動したと考えるのが自然である。

 元禄六年に書かれた「直方惣郭図」には、田代半七(田代清次郎同人か)邸を中心に宗益と同じ時代の門人、廣瀬五太夫、永嶋彦之丞、森惣右衛門、高屋平四郎邸が見てとれる。また、伊丹九郎左衛門の大屋敷や嶋勘助、神吉養姓(神吉宗範同人)の屋敷も書かれている。

 しかしこの直方惣郭図は武家屋敷のみの記載で民間人の舌間家の家は書かれてない。宗益自身は当時直方の植木村にある代官所で働いていたため、住まいも植木村にあった。

 宗益には、直方で新次惟宗が生まれている。宗益の養父舌間宗督は直方で死去(寛延三年十月二十五日没 戒名究竟院大誉乗圓大徳位)、その後寛延四年一月に養母(明和八年九月十一日没 戒名覚誉貞量信女)と惟宗を連れて福岡に来たのである。そして、宝暦元年六月二十八日に福岡中洲春吉で九十郎は生まれ、その後九十郎は臼杵姓を名乗り、家督は惟宗が継いだ。

 臼杵九十郎は、寛政十年九月二十一日福岡藩より牛牧仕立奉行に抜擢された。

臼杵九十郎宗直はその後奉行として大いに活躍し、その活躍ぶりは福岡市西区の海上にある能古島の「残島牧之神社」に寛政十一年記で臼杵九十郎宗直の活躍ぶりを刻んである石碑が現存している事からもうかがい知れる。

 惟宗には嫡子がいなかったため、惟宗死去後(文化五年八月二十五日没 戒名仁宗院民誉豊安居士)臼杵九十郎の子眞次郎を養子とし文化五年十月十七日家督を継がせた。これが後の双水執流第十代舌間眞次郎宗章である。

 舌間宗益は福岡に来てからも、直方の事が忘れられず直方旧考を書き残していた。これが今日直方史において一級の資料となっている事は言うまでもないが、双水執流においてもその継承について全力を尽くした人物である事も忘れてはいけない。

 直方旧考を読んで感じた事は、いかに宗益が直方を愛していたかと言う事が理解出来るし、直方藩が廃藩にならなければ宗益は一生を直方の地ですごすことが出来、仮に貧しくても子供達に囲まれた幸せな生涯であったはずである。

歴史の流れに翻弄されながらもひたむきに双水執流を守り続け、直方をこよなく愛し続けた宗益の生き方をかいま見た時、私は胸に沁みるものを感じた。

 確かに隻流館では舌間宗章が双水執流復興の為に努力した人物で宗章を双水執流の中興の祖としているのは当然と言えるが、しかし息子九十郎と孫の宗章を慈しんで育てた宗益もある意味本当の中興の祖と私は思う。

舌間七郎宗益 寛政六年十一月十日 戒名修徳院禮誉譲仁居士 七十四才博多妙円寺に眠る。

平成二十一年七月三日記之

平成二十一年八月一日改訂

参考資料

福岡三藩分限帳(福岡地方史談話会)

郷土の先達 舌間宗益とその業績(紫村一重著 郷土直方第12号)

福岡県地域史研究 第三号(福岡県地域史研究所)

直方惣郭図(直方市教育委員会)



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