舌間又七宗安と豊後竹田の臼杵家について

舌間又七宗安と豊後竹田の臼杵家について

臼木宗隆

平成22年9月12日記

 舌間又七については、今までに「舌間又七の直方移住についての考察」や「二神半之助総論」などで詳しく述べたが、あらためて新資料なども交えながら考察してみる。

 舌間又七は、元々は豊後竹田の出身で臼杵又七が旧姓であったが、江戸初期慶安頃に直方へ出て来て舌間重直の養子になった。その様子を舌間家譜ではこう書かれている。

 「舌間又七宗安は、与三右衛門重直の家督、重直嫡女に娶、一男あり新次郎宗督九十郎と云う、叔父喜兵衛宗能の家督す、宗安卒後、其家を同郡御徳村の産孫作を再び九十郎母を嫁、其家を継しむ。宗安、実は豊後竹田の産、同所にて無足勤、臼杵又七と云しが、故有て同所を退、信友大野弥平衛と共に士官を望有て、方々手奇を求めるといえども幸なく、ここに至り与三右衛門養子となり、民間に下る。依て豊後竹田及び在家にも其一族有といえども、其所を詳にせず」とある。内容を分かり易く書き直すと「舌間又七宗安は、舌間与三右衛門重直の婿養子となり家督を継ぐ。子供が新次郎宗督で九十郎とも言う。後、九十郎は叔父の舌間喜兵衛宗能の養子になる。宗安死去後、九十郎の母(宗安の妻、重直の娘)は御徳村の孫作と再婚、この家を継ぐ。宗安は実は豊後竹田の出身で、同所(岡藩)の無足組で臼杵又七と言う。わけあって、同所を退く。そして親友の大野弥平衛と共に士官を志して方々手を尽くしたがかなわず、宗安は舌間与三右衛門の養子となり一般人となる。よって豊後竹田及び在家にもこの一族があると言うが、その場所の詳細は分からない。」

 ここに書かれているように、又七は豊後竹田出身で臼杵又七と言い、直方上境の舌間重直の養子になった。また豊後竹田にはその臼杵一族がいるとも書かれている。また、その家譜には続いて又七の弟の存在も書かれている。

「宝永の初年、新次郎宗督、鞍手郡植木村に居住の時、ある時出家一人来る。宗督に、予は臼杵又七の弟にして、汝がためには叔父なり。今、汝は国君の扶助を得て、勤仕すと聞伝へ、本望なり。依て臼杵の家に在し脇差一腰輝行を捧げる也。汝に譲らんため持参せり。」そして「今、我雲水の身なれども豊前国中津のあたり、善光寺に足をとめ、生涯をおわるべし。」

 この記載は大変興味深い文章で、又七に弟がいたと言う事実より、直方の舌間宗督と豊後竹田の臼杵との関係を示している事にその重要性がある。又七は、寛文7(1667年)宗督3才の時に亡くなっており、その後34年経った宝永元年(1704年)にこの弟は新次郎宗督を訪れていることになる。しかし、客観的に見て3才で父又七を亡くした舌間宗督が、その後竹田の臼杵一族と連絡を取り合っていたとは考えにくい。ではどのように繋がっていたのだろうか。

 さらに、「今、汝は木国君の扶助を得て、勤仕す」は「直方藩より援助を受けて勤労する」と言う事で、これはまさに宗督が植木村で六石二人扶持の代官所勤めをしていた事を指す。ではなぜ又七の弟なる人物が、宗督の代官所勤めを知っていたのか。

 それは、二神半之助が関係している。元禄2年に豊後森から豊後竹田に戻った半之助は、臼杵家に直方の情報を伝えていたと考えられるからである。半之助自身も、寛文7年以降豊後森藩に戻っていて、その後の直方の情報は田代清次郎から持たされていたはずである。

 宗督が植木村の叔父舌間宗能の養子になりその家督を継いだのが元禄4年で、半之助がその2年後元禄6年に亡くなるまで、田代は宗督の様子を伝えていたと考えられる。

 私は、舌間又七と二神半之助とは、兄弟ではないかと思っている。ただこれと言った確たる証拠はないのだが、双水執流略史でも述べられているように、半之助を「豊後竹田の藩士にして」と言うものの、元々豊後竹田には二神一族は存在していない。しかしそれと違って、竹田には臼杵一族が住んでいる。またその略史に、又七と半之助は「謂れ(いわれ)ある間柄」とも言っている。特別な関係、つまり兄弟と見た方が自然である。

 こう考えると、竹田の臼杵家には家督を継ぐものとして例えば長男がいて、半之助が二男、又七が三男、出家して植木まで来た弟が四男と言うことだろう。やがて半之助は隣国の豊後森藩にいた二神家に養子へ、又七は直方の舌間家に養子、四男は出家し雲水として修行の旅に出た。半之助と又七はそれぞれが養子になったため、直接的な兄弟と言う表記をせず「謂れある間柄」としたのだ。

 江戸中期の竹田には、臼杵誉三治(初め庄右衛門、後長右衛門)と臼杵興右衛門(初め庄右衛門)の名前を見る。最もこの二人は一族だからどちらでよく、この両名は又七や半之助と関係があるはずである。

 ところで臼杵一族は、大友の家臣大神氏(おおが)一族でその一族から阿南、大野、臼杵、佐伯、賀来、戸次、緒方など大神姓37氏がでる。ちなみに尾形は緒方と同じで、加来と賀来、私の臼木も臼杵と同じとされている。

 大神肥後介良臣—庶幾—惟基となり惟基の二男が阿南次郎惟季に、八男の惟盛が臼杵九郎太夫惟盛となる。臼杵惟盛は、惟衝、惟用、臼杵二郎惟隆と続き、その惟隆の弟が緒方三郎惟栄になった。そして緒方三郎惟栄の系譜について一つの説として、今の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮の宮司職をめぐって惟栄の先祖である大神氏と宇佐氏が争ったが、大神氏がこの戦いで破れ豊後大野地域に下って土着勢力になったという。豊後大野は豊後竹田と隣接している地域で、この事よりやがて緒方氏、阿南氏、臼杵氏などが竹田に入ったと思われるが、ただしこれは平安末期の源平合戦頃の話で、このまま竹田で現在に至るまで続いたとは考えにくい。私は現在の臼杵一族も含め、竹田に臼杵一族が定住したのは基本的には室町末期と考えている。室町末期の戦国時代に、豊後大友氏は勢力拡大のため豊後国内はもとより、豊前や筑後、筑前まで広範囲で家臣を置いた。とくに豊後国の内陸部は阿南氏、臼杵氏、緒方氏、大野氏などがその勢力となった。いずれにしても、現在の竹田市には阿南姓は多く、また臼杵姓も現存しているので、今後の調査としたい。

    

 

豊後竹田駅           竹田の武家屋敷跡

 それと同じように、舌間家も初代舌間河内守吉宗が大友氏の家臣で、その息子舌間甲斐守國綱が大友領内の豊後日田郡から筑前国粥田庄まで押え、さらに鞍手郡境郷の諏訪山に砦を構えた。その後、新蔵人益綱、越後守緒綱、越後守宗善、与右衛門浄安、与三右衛門重直と続いた。そして、舌間重直の養子に臼杵又七が養子に入ったのである。

 問題は、なぜ臼杵又七が直方上境の舌間重直を知っていたのか。間接的にでも誰かに紹介されない限りは、養子になると言う事はあり得ない話である。直方と臼杵の接点とは一体何なのだろうか。

 ところで平成22年4月の直方調査で、大変興味深い事が分かった。それは直方市頓野に臼杵と言う地名があった事である。しかし現在は住所表示変更にともない、この地名はなくなったが、昭和50年代までは存在していた。そしてこの場所は舌間宗善が保正となってまとめていた畑(はた)、下境に極めて近い場所でもある。ここの地名由来に関してはまだまったく分かっていないが、仮にこの場所に臼杵一族が住んでいてそれが地名になったとしたら、舌間家との接点も見えてくる。

 それをわずかだか想像させられる一文が舌間家譜に書かれている。それは舌間甲斐守國綱が諏訪山に砦を構えた時の事で「大友家領の内、豊後国日田郡より筑前国粥田庄まで押え、(さらに)命を請けて鞍手郡境郷諏訪山に砦を構え同士相代わりこれを守る」とある。ここで大事なのは、これにあるように大友家から命を受けて諏訪山砦保持のために舌間以外にも他の大友家臣が代わる代わる来て守ったと言うことを言っている点である。そうなると、豊後大野や竹田にいた臼杵氏も参加していた可能性がでてくる。

 さらに舌間家譜では、緒綱の時には誰もいなくなって一人で諏訪山を守っていたとも書かれている。つまりそれまでは大友家臣の仲間がいたが何らかの理由で家臣達は豊後に戻ったか、あるいは民間に下り境郷あたりに土着したと考えられるのである。その中の一人に臼杵氏がいたとすれば分かり易い。

 ただこれはあくまで私個人の推測であって確証がある訳ではないので、今後の研究課題として頂きたい。

 このように、舌間家と臼杵家はかなり親密な関係にあり、この事がやがて福岡に出て来た舌間家、双水執流第九代臼杵九十郎宗直にも現れている。臼杵九十郎は舌間宗益の二男であったが後に臼杵九十郎と改名した。

「臼杵氏と改る事、宗直祖父舌間新次郎宗督実父臼杵又七宗安と称し、豊後竹田の産で・・・中略、宗直今御恵に有りて、御扶助を賜り勤仕する事幸限なし、これ先祖の臼杵氏を称度旨奉願しに、其如く御許しあり、寛文七年五月宗安没後より、今明和六年まで百三年に至り、臼杵の姓を起こす事、申すもかしこまりあり」

 右の脇差の押型は、私が昭和60年に福岡県久留米市の古美術商から依頼されて研磨した脇差で、舌間又七の弟とされる僧侶が豊後竹田の臼杵家にある脇差を持参して舌間宗督に差し上げた「輝行」と偶然にも同じ刀工の作品。

 これで見て分かるように輝行は豊後高田に住み、作刀していた刀工。時代は元禄頃とされている。参考までにここに掲載しておく。

 舌間家譜に「右一腰(輝行)宗益が家に秘蔵せる者也」とあるが、現在の直方及び福岡市の舌間家にも確認はされていない。

 

豊州高田住藤原輝行 長さ一尺七寸 反り四分五厘

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