松井百太郎宗忠について

松井百太郎宗忠について

臼木宗隆

 松井百太郎宗忠(まついひゃくたろうむねただ)は、元治元年(1864年)2月8日(4日と言う説もある)黒田藩士松井嘉吉の長男として福岡薬院町で生まれた。薬院町は、外国から渡来してきた薬草を育てる薬草園があったため薬院町と呼ばれるようになったと言う。現在の福岡市薬院がその一帯である。

 慶応3年(1867年)、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還を行い事実上ここに江戸時代は終りを告げた。松井百太郎3才の時であった。

 明治政府が樹立、江戸から東京にと名称も変わり、明治8年(1875年)松井百太郎11才の時に、伯父にあたる自剛天真流の松井幸吉に入門。松井幸吉は、自剛天真流以外にも双水執流も学んでおり、松井百太郎はその両方の基本的な事を学んでいたと考えられる。その後、明治10年(1877年)3月に双水執流舌間弥五郎宗綱に入門したとなっている。しかし、明治13年(1880年)に敵合秘事を得ている事から、私は舌間宗綱に入門したのはこの明治13年ではないかと考えている。そもそも、敵合秘事は入門してから数ヶ月で発行されるもので、入門して3年かかるのは不自然だからである。また、伯父の松井幸吉は、嘉永3年(1850年)生れ、明治元年(1868年)で18才、百太郎が入門した明治8年で25才にあたる。そして明治40年(1907年)9月22日、57才で亡くなった。

 松井百太郎は明治13年16才で舌間宗綱に入門後、明治16年(1883年)19才で千本取りを行っている。そして翌年明治17年(1884年)、20才の時に小倉連隊に入隊した。小倉連隊とは、明治7年4月歩兵第十四連隊が現在の北九州小倉区小倉城に新設され、その後一部の部隊が福岡城に移動、これが「福岡分営」となり明治9年(1876年)の秋月の乱や、明治10年(1877年)の西南の役につながった「福岡の乱」の鎮圧に出動している。その後、部隊は小倉の戻り明治17年(1884年)7月1日に「歩兵第二十四連隊」として再編されたのである。

東京での松井百太郎

 3年ほどの入隊のあと除隊、明治21年(1888年)

明治21年頃の武道世話役係当時の松井百太郎

24才の時に松井は東京に出てくる。その理由は諸説あるが、当時警視庁では国際社会にともない凶悪犯の増加が懸念されると言う事から、逮捕術の強化のため明治20年頃武術の師範クラスを募集していた。松井は小倉連隊当時、銃槍教師をしていた経歴もあり、除隊後自ら応募したと言うのが真実のようである。

 東京に出て来た松井は警視庁武道世話係として就任、また赤坂警察署に勤務するようになった。赤坂警察署に勤務した松井は、当初この赤坂署に近いところに住んでいたと思われる。

 その後松井は、しばらくして赤坂福吉町の一条公爵邸内に柔道場を開いた。これが赤坂尚武館道場で、松井はここで柔道の傍ら双水執流を教え始めた。ただし松井百太郎が、なぜ一条実輝公爵邸に道場を作る事が出来たのかは解ってはいない。ただ、当時の赤坂区(現在の港区)の区長だった近藤政利氏(明治22年6月就任〜大正2年7月退任)が松井と大変親しかったことから、近藤区長の働きがあっての事だと考えられる。また、一条実輝公爵は慶応2年(1866年)生れで松井とは2才違い、そのため松井の考えにも共感出来たのであろう。ちなみに、一条実輝公爵は明治神宮の初代宮司を勤め、大正13年(1924年)に亡くなった。

 ところで双水執流は江戸末期に江戸の黒田藩邸内で伝承されたと言う説が一部にあるが、私の知る限りではでそのような文献は確認されていない。したがって、東京に双水執流が伝わり始めたのは松井が東京に出て来てからの事であると言えよう。

 大正4年(1915年)に発行された武芸と言う雑誌に「双水執流の三師範」と言う記事が掲載されており、そこには松井の事がある程度詳しく書かれている。著者は九州生と言うペンネームで誰であるか特定は出来ないが、面白い事は松井百太郎を「ひゃくたろう」としているとこである。一説には「ももたろう」が正しいとの説もあるようだが、これは私の師匠の北島先生もまた佐藤昇一郎先生も「ひゃくたろう」と呼んでいた事と符号している。また、私共が独自に行った赤坂調査に於いても松井を知っている方々は全て「ひゃくたろう」と呼んでいる。

尚武館跡地現在の東京都港区赤坂2丁目付近

さらに、佐藤昇一郎先生と親交の深かった武道研究家で真蔭流柔術の山田実先生も佐藤先生から「ひゃくたろう」と聞いていたと話されている。この事は、例えば福岡での戸籍上の名前は「ももたろう」でも松井自身が自ら「ひゃくたろう」と名乗っていたと考える事ができる。

 さて、その武芸には明治後期という時代には珍しく多くの外国人が門弟にいたと記載されていて、数人の名前も書かれていたため、

アイスマンガ大尉

それらについて追跡調査を試みてみた。その結果、一人のイギリス人のアイスマンガ大尉なる人物を、当道場門人でイギリス在住スティーブン・デレィーニの調査によって確認する事が出来た。ただし、アイスマンガに関してはまだ調査中でもありその詳細は正確に解った時点で発表したいと考えている。

 大正12年(1923年)に尚武館は改築された。それを裏付ける資料とし「大正12年4月 第二回大日本柔道整復師会定期総会(初代会長市川欽)赤坂区一条公私邸尚武館新築大道場」と記載されていることで解る。このことを以て当時尚武館は東京で最大の柔道場であったと言われた。

 ところが、大正12年(1923年)9月1日、東京を中心とする巨大地震が発生した。関東大震災である。東京は壊滅状態になり、特に墨田、江東地区は最大規模の火災が発生し多くの犠牲者を生んだ。歴史に残る痛ましい災害である。

また赤坂も同じで、尚武館も大打撃を受けた。その様子を東京学芸大学紀要第4部門第56集にわずかだが記録が残されている。

「赤坂福吉町 甚大な損害。全潰棟数8 半棟数7」その後、尚武館は再建され、多くの門弟が入門していたと言われている。

明治42年武徳祭演武会について

 明治42年5月京都武徳殿で行われた第十四回武徳祭大演武会の記事を見ると大変興味深い内容が記載されている。

柔術の部

熊本  星野九門   兵庫  田邊又右衛門

和歌山 関口柔心   東京  河野市二

福岡  青柳喜平   香川  大島彦三郎

東京  山下義昭   千葉  山本釿作

岡山  今井行太郎  香川  片山高義

東京  横山作次郎

これを見ると、福岡から青柳喜平師範が来たのが解る。また、この大会での柔道の試合名簿には八尋安次郎や和田亀太郎など隻流館の館員が記載されており、青柳師が代表で引き連れて来た。

 さらに演武についての記載で、居合の部では新田宮流、伯耆流、長谷川流、大森流、関口流、力信流、無手勝流、直心影流と並んで「双水執流 相羽蜘祐」との記載があり、相羽はここで腰之廻を行った事が解る。相羽は舌間弥五郎宗綱の弟子で松井の兄弟子にあたる人物である。

 また形の部では警視流として「東京 松井百太郎、谷虎雄」となっており、さらに模範乱捕では「福岡 相羽蜘祐、東京 谷虎雄」と記載されている。谷虎雄がどんな人物かは分からないが、一説には天神真揚流柔術を学んでいたと言われている。また松井と同じく警視庁の武道世話係にいたのは確認されていて、松井とは個人的にも親しい関係であったと考えられ、おそらく尚武館で双水執流も学んでいたと推測される。だから模範乱捕で松井の兄弟子の相羽と組む事が出来たのだろう。

武道世話係当時の谷虎雄

相羽蜘祐の墓

松井百太郎宗忠の伝書

 松井が発行した伝書で現存しているのは、某氏に発行された大正二年高昇、大正六年組討目録がある。また当道場の佐々木麻雄師範の御祖父佐々木章次師は松井門下生で大正七年敵合秘事、大正八年高昇、昭和二年組討目録が現存している。さらに佐藤昇一郎師は組討目録と後目録が、杉山正太郎師は組討目録、腰之廻目録がある。

佐々木章次師の高昇と組討目録(佐々木師範所蔵)

 松井の伝書の最大の特徴は、舌間宗綱と一字一句まったく変わっていないと言う事につきる。当たり前と言えばそれまでだが、実際には多くの伝書は忠実に伝えられているつもりでも、その時の道統者の主観や思い込み、あるいは意図的な改ざん等もあり、以外と同じものは多くない。また印に関してもまったく同じ内容のものを使っている事は、松井が舌間宗綱の伝書の内容を完全に理解している事を意味している。

 それと対照的なのが青柳喜平師範の伝書で、松井の伝書とかなり内容が異なっている。それは武徳会柔道を基本としている事で、その事自体は当時の時流として理解は出来る。また、組討にいたっては自身の信念に基づき新しい技を取り入れることを試みているが、しかし残念ながらそれが現在に伝承されていない。さらに青柳師範はこの伝書で見るように、この時点では自身を12代としている。現在の隻流館での系図では、11代が舌間宗綱で12代が舌間真吾、13代を再び舌間宗綱が再継となっていて、青柳は14代としている。

 ただいずれにしても青柳喜平師範の御尽力により現在の隻流館があるわけで、その恩恵は計り知れない。

青柳喜平の伝書 大正十五年八月(臼木宗隆所蔵)

晩年の松井百太郎

 昭和に入った松井は、勢力的に門弟を増やし、また柔道整復師の普及に尽力を注いだ。そのことがあって、昭和3年(1928年)4月、第7回大日本柔道整復師会定期総会(神田錦町松本亭)で松井は会長に就任している。

 昭和5年(1930年)11月3日松井66才の時、明治神宮鎮座十年奉納武道大会で松本福次郎(後に松井の養子となる)28才と演武をしている。この事から見ると、この時点ではまだ福次郎は松本姓で松井の養子にはなっていない事が解る。この後、松井が亡くなる昭和7年の2年間の間に養子に入ったか、もしくは松井が亡くなってからの可能性もあるだろう。

 ところで、実は面白い話がある。松井は昭和になってから柔道場の他に温泉(銭湯)も経営していたと言うのである。実際松井を知っている古い方々は、松井道場(尚武館)の先生ともう一つの顔「風呂屋の百さん」と言う言い方もしている。また、佐藤昇一郎先生の御子息の佐藤正司さんとお話をした時、佐藤先生は青山で理髪店を営業していたが同時に銭湯も経営していて、松井先生と同じ仕事だったと言っていた。

 これを調べてみると実に興味深い事が出てくる。それは、一条実輝公爵が大正13年に亡くなると、養子として一条実孝氏がその後を継ぐのだが、その一条実孝氏は初代温泉協会の会長になっているのである。昭和初期の東京では、ブームのように多くの温泉(銭湯)が出来た。おそらく、そう言う時流の中で一条実孝氏は一条邸尚武館の隣に温泉を作り、その経営も松井に任せていたと考えられる。

 時代は、刻々と戦争ヘの道を進み始めた昭和7年(1932年)5月15日、日本帝国海軍の青年将校が反乱を起こし、当時護憲運動の旗頭だった犬養毅首相を暗殺したいわゆる5.15事件が起きた。そう言う歴史の変貌の中で松井はその年の8月16日突然の心臓発作によりその歴史舞台から姿を消したのである。享年68才。

昭和12年頃の尚武館 佐藤昇一郎、杉山正太郎両先生

松井百太郎宗忠

平成22年7月26日記之